第5回 より高きをめざして----2年目にチーム崩壊の危機


 88年、フュ−チャ−ズは県西部支部2部リーグに昇格した。2部は15チームで構成されていた。 実は前シーズン途中に大きな問題が起きていた。

 チームの快進撃を新聞、テレビなどが大きく報道したことがその遠因になった。本田技研の社員がフュ−チャ−ズに所属していることが明らかになったためだ。「他企業の宣伝活動のために自社社員が利用されている」。そうした声が本田技研に沸き起こったのだ。まさに、「好事魔多し」のたとえ通りの危機であった。

 直接的な契機は、佐鳴湖サッカー場のオープニングゲームだった。このセレモニーに本田技研浜松の総務担当者と当時の監督を招いたことが、かえって仇となった。会社幹部がこの試合を観戦したことで、9人の本田社員がチームの主力となっていることが露見した。斉藤、山田、樋口、多武、鈴木、小川、関、比嘉、秋山といった選手たちだった。試合は土・日、練習は夜で、勤務に支障はないとはいえ、私的な行動にしては問題がある。これが本田技研の結論であった。

 本田社員の選手たちは、シーズン終了を待って本田社員は辞職するかチームから外れるかの決断を迫られた。本田技研浜松製作所には、日本リーグの本田技研チームの他に、県1部リーグの本田浜松と県2部リーグの浜友会クラブの2つの社員チームがあった。サッカーを楽しむのなら、そこでやればいい。これが会社側の下した結論だった。山田、樋口、比嘉、秋山の4選手は、これを期にホンダを退職して引き続きフューチャ−ズでプレーする道を選んだ。そして、前シースンの参加を見送った伊藤直司(現四日市大学監督)と熊谷義一(現在自営)が、本田技研を退職してチームに加わった。この6選手は、もう一度選手としてサッカーでやり残したことにリベンジすることを望んだのだ。本田技研という大企業の恵まれた待遇を捨ててでも、自らの夢に賭ける。普通にできる決断ではなかったと思う。しかも樋口、比嘉、伊藤は既婚者だったのだ。有田さんは、桑原さんを社長にした代理店を立ち上げそこで安藤を除く全選手の生活を保証する体制をとった。そうはいっても、選手にとっては退路を断ったことを意味する。結果を出さなければ路頭に迷うことになる。選手たちは、そうした思いを胸にシーズンを迎えたのだ。

 この一連の経緯を、後から何度も考えてみた。

 もちろん、本田の社員が他社の宣伝活動に利用されるのは不都合なのは当然である。ところが、どうもそれだけではなかったのじゃなかろうかと、邪推する余地があった。そいう疑いを差し挟むことになったのは、この元監督のその後の挙動だった。Jリーグが発足する時に、ごっそり本田から主力選手を引き抜き、自分が監督に内定していたチームに移したのだ。これで、本田技研は数年立ち直ることができないくらいの大きな打撃を受けている。本田技研の本業以外の事業に手を出さないという内規を逆手にとって、選手に移籍を働きかけたのではないかという疑問が残るのだ。こういう策を弄する人柄が、フュ−チャ−ズへの選手供出を止めさせることをしなかったとは言えない。フュ−チャ−ズに参加した選手は、この監督になって引退を迫られた人たちばかりだ。そうした選手に活躍されては困る事情がこの元監督にはあったのではないか。その前任監督であった桑原さんが、どう考えているのかは分からない。ただ、選手たちが話していたことを側で聞いていている限り、どうしてもそんな感じがした。あくまでもこれは推測の域を出ないことで、書くべきかどうかを非常に迷ったが、あえて書いて残すことにした。

 こうした状況もあって、シーズン開幕時の登録選手は桑原さん、隆さんを含めて14人に激減した。当社の社員を、もしもの時のために登録し、練習にも参加させたりもした。幸いなことに当社の社員には出番はなく、胸をなで下ろしたことを鮮明に覚えている。この年の新加入は駒大の学生だったDF大橋秀彦とGKの大原公隆の2選手、大橋は試合の時だけ東京から駆けつけるのだ。故障者が続出したら、チームが成り立たない。そんな危惧を抱えてフュ−チャ−ズはシーズンに臨んだのだ。シーズン途中から俊足の左ウイング岡野薫と、聖隷高校を中退して加入した爆発力のある丸井●●が加入して、戦力はやや厚みを増した。

 2シーズン目の緒戦はジミーズに13対1と快勝して、危なげのないスタートを切った。全部で14戦を戦ったが、静岡大クラブ戦が5対0と一桁台だったほかは、13試合が二桁得点の圧勝で勝ち抜いた。最終戦直前の天狗クラブ戦は20対0とそれ以降を含めてのリーグ戦最多得点をゲットした。終わってみれば、14戦全勝で192得点を挙げていた。一試合平均13.7点で、前シーズンを0.7上回った。失点は緒戦のジミ−ズと7節のノーランズ戦で許した各1点の計2点にとどまった。ほとんど相手につけいる隙を与えない完勝を続けて、2シーズン目を乗り切った。

 前シーズンチーム1の30得点を挙げた比嘉や22得点を挙げた関に代わって、得点源になったのが伊藤直司だった。一人で49得点をゲットしている。一試合平均3.5点と猛威を振るったのだ。前シーズン12得点だった秋山三好も倍増以上の29点を挙げ、チームの中核に育った森下が35点、1年目は出番の少なかった津島雄ニが21点をゲットするなど、確実に若手が台頭してきた。

 チームの大改造が、かえって予期せぬ好結果を生んだ。これから先は誰にも頼らず、自分たちの力でやり遂げるという自覚が生んだ優勝だったような気がする。それでも天皇杯県予選決勝では、結局負けてしまった。本格的なチームの改造を桑原さんが考えたのは、この敗戦からではなかったかと僕は思っている。桑原さんは次のシーズンに備えるに当って、数年先のリーグにも耐えられるだけのチームづくりを決意し、それを有田さんに伝えた。外人選手を含んだ大規模で本格的なチームの再編成が結成3年目のシーズンに備えてはじまるのである。