第1回 起死回生


 思わぬことから、思わぬ展開が起きる。その後の一連の騒ぎを経験するまでは、そんなことが起きるのは小説の世界だけのことだと思っていた。
 今は確かにそういうことがあり得ると確信を持って断言できる。それは、次のような事件が起きたからだ。それはおそらく僕の人生で最大の経験となる事件の発端だった。

 1985年のたしか12月のある日の午後のことだったと思う。1本の電話がかかってきた。相手は「PJMジャパンの越智」と名乗った。会社の名前にも電話をくれた越智さんの名にも心当たりはなかった。自社で発行している雑誌に掲載するインタビューの取材と原稿を依頼したいというのがその用件だった。
 当時、仕事仲間との金銭的トラブルが起き、それまで2年を一緒にやっていたチームが空中分解寸前だった。それまでにやった仕事に支払いがまったくなされなかったのだ。営業担当者に我々の働き分をすべて使い込まれていたことが、しばらく経ってから明らかになった。自社で開拓した仕事のほとんどの営業を、その人間に依託していた。自社で直接やっていたリクルートからの仕事だけで、事務所を維持しなければなない状態が続いていたのだ。どんな仕事でも、当時の我が社にとっては救いの神だったのである。
 翌年2月16日は晴れてはいたが、風が強く、非常に寒い日だった。春はまだ遠く、中田島砂丘に近い砂地のグランドには砂塵が何度も舞い上がっていた。そのなかで中年を過ぎた老プレーヤーが天真爛漫に走り回っていた。その中に混じってプレーしていたのが本田技研サッカー部の前監督桑原勝義さんがいた。越智さんから伝えられた取材対象のこの人のことについての知識はほとんどなかった。サッカー王国静岡が生んだ名選手のひとりだったことだけをかろうじて知っていた程度のものだった。
 この日は静岡県サッカー界の往年の名選手たちが集まって作っている「快童クラブ」の試合日にあたっていた。この試合の後でインタビューをさせてもらう約束になっていたのだ。国道1号線のバイパス沿いにある静岡銀行のグランドが待ち合わせ場所だった。午前中の試合の後、道をはさんだボーリング場の喫茶店に席を移してインタビューをした。コーディネートしてくれた地元のン代理店サクセス・エクゼクティブから宮部社長と本間久夫さんが同席した。本間さんは桑原さんにPJMの製品を売ったセールスマンだった。すべてが耳新しいことばかりだったの楽しかった。桑原さんも楽しそうにサッカーをまったく知らない僕に丁寧なレクチャーをしてくれた。結局は3時間近くもの取材になった。こういうことは比較的珍しい。その日から10日の2月19日に原稿が仕上がり、越智さんに送った。3月中旬に発行された雑誌「トータル・パースン」のそのインタビュー記事はなかなか好評だと、わざわざ本間さんが電話で伝えてきた。
 この取材にはおまけがついた。原稿を読んでくれた桑原さんから、これまでの自分のサッカー人生とこれからの夢を1冊の本にまとめたいので手伝ってくれという依頼があったのだ。4月29日の夕刻、本間さんを交え、浜松城の天守閣を一望する市内のホテルの最上階にあるラウンジで酒を酌み交わしながらその構想を聞いた。この席で5月10日に桑原さんがこれまで書きためてきた原稿を読ませてもらい、具体的な内容を詰めることが決まった。桑原さんは浜名湖に面した宿泊研修施設「村櫛荘」に部屋をとってくれていた。ここに1泊し深夜まで桑原さんはサッカーに駆ける夢を熱く語った。結局、この本の出版は日の目を見なかったのだが、話は急転直下、もっと意外な展開を辿ることになっていった。
 業務提携解消のごたごたも、6月に入ってなんとかケリがついた。支払ってもらうことを諦めただけのことだったが、取引先の1社が継続する仕事をすべて当社に発注するという決定を下してくれたことで、事業存続が可能になったからだ。ちなみに、この年はこの会社からの仕事が全体の6割近くを占め、わが事務所にとっては過去最高の売り上げを記録することができた。地獄で仏とはまさにこのことだった。この決定をしてくれたSさんには感謝の他はない。20年を経た今も彼の好意に手を合わせている。
 が横道に外れてしまったが、この間本間さんは、PJM本社に桑原さんの夢の実現をサポートするよう精力的に働きかけていた。
 桑原さんの夢は、2002年にワールドカップを日本に招致し、自分の運営するサッカースクールで育てた選手を日本代表チームの一員として送り出すという、とてつもなく壮大なものだった。当時日本のサッカーは世界的にはまったく低レベルで、ワールドカップの開催などはたわごとに類するものであった。今日現実のものになったこの夢を日本で一番先に語ったのは間違いなく桑原勝義さんだったことを、僕はその場に立ち会った一人として証言できる。当時の「サッカーマガジン」に、共同通信の記者が「2002年に日本にワールドカップを呼ぼうと訴え、名刺にそのアピールを刷り込んで働きかけている人がいる」と桑原さんの夢を大きく紹介した。  
 梅雨の中休みの一夜、とある小料理屋のカウンターで三たび、桑原、本間の両氏と落ち合った。10人も入ればいっぱいになるようなカウンターだけの「安藤」という小料理店だった。本間さんの働きかけが効を奏しつつあったのである。この席でPJMジャパンの社長有田平さんが、我々の目論んだ構想に興味を示しているという朗報が伝えられた。それまでの段階でサッカースクールの開設にはほぼメドがついていた。この日話し合われたのは、サッカースクールで育てた選手の活躍の場をどうするかという問題だった。2002年までにトップのリーグ(当時は日本リーグ)にチームをもっていかなければ、日本代表に選手を送り込めないからだった。サッカースクールの受け皿になるチームをもっていなければならない。日本リーグの下に地域リーグがあり、その下に県のリーグがあり、その下に県の支部リーグがある。静岡県の場合だと支部リーグに3段階、県リーグに2段階、地域リーグに2段階あった。これを1年で全部クリアしたとしても日本リーグに昇格するには最低8年を必要としていた。早急にチームを結成し、8年で一気に日本サッカー界の頂点に立たなければならない。この場で、桑原さんが選手集めと県協会の登録申請を、本間さんがPJMからのスポンサードを得る折衝を、そして僕がこれらの構想を整理して企画書に取りまとめるという役割分担が決まった。
 翌日からそれぞれの作業に没頭した。桑原さんにも、本間さんにも日中はそれぞれ本業の仕事がある。僕が昼間まとめたものを夜に僕の事務所に集まってもらい、検討を重ね課題となることをひとつづつクリアしていった。最後にまで残ったのは、グラウンドの用地と年間運営予算のシュミレーションだった。これらの作業が終わるのにほぼ1ヵ月を要した。7月の半ばに我々3人は東京恵比寿にあるPJM本社を訪ねて、有田社長のヒアリングに臨んだ。10時から始まったこのミーティングは3時間ほどだったと思う。大筋は企画書で説明してあったので、もっぱら質問は細部の問題だった。午後1時にこれが終わった。恵比寿駅前のビアレストラン「ライオン」で昼食をごちそうになったのが間違いのもとだった。そこで延々4時間夢を語り、さらに新橋の中華料理店とクラブを回ってタクシーで帰宅する有田さんを見送ったのは午前1時だった。ほぼ、これで構想は成ったという深い安堵をもって、赤坂のカプセルホテルに宿をとり、眠りについたのは午前2時を回っていた。

こうして、伝説のチーム「PJMフュ−チャ−ズ」の結成が決まったのだった。